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「the peace and security of a world without nuclear weapons.」
2009年4月、米国のオバマ大統領がプラハで行った「核なき世界」の演説は、世界で唯一原子爆弾を実戦で投下した国として、その核の「根絶」に向けた意思を明確に現したと世界中で大きく報じられた。同時に、自分が生きている間に到達するのは無理だという現実論も述べている。

64年前の8月、広島と長崎に落とされた原子爆弾。「ヒロシマノート」(大江健三郎著)や「ナガサキノート」(朝日新聞社)で伝え聞く惨劇は、「この地球上から即刻、核兵器の【根絶】を」と思わせる。

一方では、第二次世界大戦を終わらせ、その後も「抑止力」として世界の【平和】に役だったとする「核抑止力」の一面を声高に言う人もいる。オバマ演説を受けて、さらにイランが主張する核エネルギーの平和利用や北朝鮮による核開発など、世界は再び、「核」という言葉に注視せざるを得ない状態に陥っている。


「核」。
英語ではnucleusとcoreの2つをあてる。

確かに「nuclear」のエネルギーは、化石系の終わり在る資源ではなく、それでいて自然エネルギーよりも膨大な量の「エネルギー」が作れる。それを平和的に利用しているという国は日本を含め多い。が、すぐに「兵器」にもとってかわれる技術。ここに世界はおびえるのである。

核兵器の広がりを抑えようとする動き。オバマ以前の世界は、核保有国を増やさないための取り決めや条約に躍起になっていた。それは、核兵器が先述の「抑止力」にもなりうること、同時に核兵器を維持するためには莫大な費用がかかることなどから、「安定していない国家の所有」を恐れたからだ。が、その技術の広がりに歯止めがかからず、インド・パキスタンだけでなく、北朝鮮、イランもその疑いがかけられるようになった。原子爆弾の恐ろしさ、それがもたらす惨劇。戦場の、非人道的な慟哭。それを二度と、この地球上で起こしてはならない。そんな強い思いが、「だから核兵器を持っていると【交渉】できる」という歪んだ方向へと向かわせる。

人類史上、最も盛んで終わり無いものに「戦争」というものがある。それこそが、我々の「核」(core)であるなら、coreになったnucleusとどう向き合っていくのか。

「核なき世界」への【将来像】と「核のある世界」という【現実】。
せ〜の、で一斉にやめることのできない現実論の前で、核を廃絶しつつ、核に対する絶対的な防御的なもの(シェルター)も同時に考える必要がある。

いつか、夢の「核なき世界」が現実となったとき、どこかの身勝手な輩が核兵器をもったとしても、それが通用しないしっかりとした「核(core)」のある世界になっているように。

つまりは、Nucleusのない、Coreのある世界。

それこそが目指すべきところだと、ぼくは思う。