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平和祈念像 
Nagasaki, Japan

HIROSHIMAとNAGASAKI。ウラン型とプルトニウム型という二つの原子爆弾が人類史上初めて投下された町。最も「平和」から遠い歴史を刻んだ「平和へ」の遺産だ。

広島の原爆ドームの前に立ったとき、ぼくは「原爆の恐ろしさ」を感じる。過去の、悲惨さに胸を痛める。その苦しさ、そして愚かさの代償となった方への言いようのない想いを抱く。

一方で、この長崎・平和公園にある平和祈念像を目の当たりにすると、「これからの誓い」をぼくは強くする。原爆の恐ろしさ、悲惨さ、継続し続ける苦しみ。そういった「経験」を、その歴史を未来につなげ、「平和であり続けたい」という強い思いに駆られる。原爆の被害者の方へ「言いようのなかった想い」が、この像の前では強く、そしてはっきりとした意志に変わる。それは、原爆ドームが、原爆投下前まで「普通」に存在し、そしてその威力を今に残す「跡」になっているのに比べ、この平和祈念像は、原爆投下から10年が経った時、改めて原爆の記憶を像にしたというバックグラウンドの違いももちろんあるだろう。が、それだけではない。

この姿形。天に高く突き上げられた右腕は、「この上空で原爆が投下」されたことを示し、左手は水平にまっすぐ、「平和」であれ、と説く。顔の表情は仏か神か、とにかく穏やかだ。高さ9.7mの巨大な像が見守る永い未来。この前で、改めて平和を想うのだ。

人の少ない午前中。それもできるだけ早くに行くといい。公園内を清掃員が掃除し、ひときわ静かな空間に自分ひとり。像に近づいて見上げる。とても清らかに、そして絶え間なく音をたてる水の流れ。その一定間隔のリズムが、「今の平和」を喜び歌っているのか、それとも「今」に警鐘を鳴らしているのか。日本だけではない世界を思い浮かべ、また、平和を思ったりする。シャラシャラとあふれた水が流れ落ちる。とても澄んだ水。腰をかがめすくってみる。「水が欲しい」と叫び命絶えた被害者の方を思い、ここでこうして水をすくっている自分を比べる。

自ずと、また「平和であり続ける」ことを誓ってみたりするのだ。