カラカラに乾いた「死」は、「生」に瑞々しさと輝きを与える。死を思い、生を謳歌する。これは、醜が美を、苦が楽を、損が得を、雨が晴天を、に同じである。つまり、悦びの頂点は哀しみの底辺の上にあるからこそ感じられるものである。
先日、僕は新聞記事を読んでそんなことを思った。
「テキサス州在住のある女性が、17年間飼っていた猫のニッキーが死亡し、遺伝子バンクに預けていたニッキーのDNAからアメリカのジェネティック・セービングス・アンド・クローン社に依頼してクローン猫をつくり、同社がこの女性に配達。料金は5万ドル(約520万円)。「リトルニッキー」と名付けられた猫は今、生後2カ月になるという」(朝日新聞)
クローン技術については羊の誕生以来、生命倫理の点から様々言われている。確かに、上質の「肉」を持つ牛のDNAから何頭も作り出すことによってその値段は下がり、多く行き当たるだろう。知能・容姿などの先天的要素を良質な遺伝子から作ることで、世の中には(もう死語だが)3高が溢れる。この、「選んで作る」時代。そのことの是非。自然界では長い年月を経て、生き残るための選別が為され、環境に合わせて姿形が変わることは確認されている。食べやすく首が長くなったり、くちばしにカーブができたり、と。それを人間の手で行うだけではないか、ととんちんかんなことを言い出す人もいる。
僕はどうか。新に作り出すと言い切って考える場合、全部が全部クローンに反対かと言われれば難しい。それは止めてどうなる訳でもないし、そこに決定的な欠陥があるとも思えないからだ。
ただ、今回の、このペットクローン産業に関しては、「生」の再生であり、繰り返しである点からして、僕は、来るところまできたというか、危機というか、そういうものを感じずにはいられない。死んだものを生き返らせるためのクローン技術というのは、今のところ完全に再生することは不可能に近いらしいが、ある意味で「死」をこの世から排除することになり、死をなくした「生」の悦びもまた、消滅させることになる。オンとオフのない無味乾燥した「ただ生き」ているという拷問。だから死にたくない、それでも生きたいという希望や強い力を吸収してしまう発展には、無力ながらでも抵抗したいと思う。やっぱり、一度きりの人生には、生も死も一回きりという「緊張感」が必要で、失敗しても諦めない粘りが美しく、そうやって太くなった人生に、僕はあくまでもこだわりたい。リセット、やり直し、次の人生?そんなことの為に今の人生を費やすのは、もったいないではないですか。

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生の繰り返し

2005年1月4日