世界遺産で人を守る?
2005年7月16日




世界遺産と聞いて、パッと出てくる場所は十人十色だと思う。例えば「ピラミッド」、「アンコールワット」、「タージマハール」、「京都」、「自由の女神」。富士山なんていう人もいるかもしれないが、富士山は世界遺産ではない。

世界遺産とは一体何か。
「現代を生きる世界のすべての人びとが共有し、未来の世代に引き継いでいくべき人類共通の宝物」(日本ユネスコ協会連盟)というのがそれらしい。

先日、北海道の知床(斜里町・羅臼町)が世界遺産に決まった。これで、日本にある世界遺産は13になる。今、世界で指定されている「遺産」の数は自然遺産、文化遺産、複合遺産を合わせて800を超え、百数十か国に渡っている。このことから考えて、少なくない数と言える。何より、日本人は本当に世界遺産が好きなのだ。例えば、夏の旅行を計画するとする。ポーランドに行きたいなと思いながらパンフレットをペラペラめくりながら「世界遺産」のマーキングを見つけると、それだけでそこが何なのかすら知らなくても「なんかよさそう」な気になるに違いない。

そうやって観光客が増えることが、世界遺産として残すべき宝を破壊している悲しい現実がある。

ヨーロッパなど歴史のある国の多くは、「世界遺産お断り」を決め込む自治体が多いと聞く。なぜかというと、世界遺産という宣伝効果、資金援助など受けなくても「やっていける」場所であるからだというのが理由らしい。
「あれ?それって要するに観光客を呼んで地域を活性化するためなのか」
15日付の朝日新聞に、知床の次は島根県「石見銀山を世界遺産に推薦へ」という記事が載っていた。「やっぱりな、」と思わざるを得ない。一体どれだけの人が石見銀山とその周辺の歴史地区を守りたいと思っているのだろう。それなら「富士山」だろう、という声が漏れてきそうな気がする。

そもそも世界遺産とは、1972年に始まり、日本が締結国となったのは1992年、125か国目だった。翌年、93年に文化遺産として「法隆寺」「姫路城」、自然遺産として「白神山地」「屋久島」が登録され、94年には「古都京都の文化財(17の寺社)」が登録された。ここで「世界遺産」フィーバーのようなものが起こり、各地の自治体は登録に向けその活動を活発化させた。先に述べた「富士山」も、この頃、大きく活動を行っていた。ニッポンのフジヤマを世界遺産に!、と。しかし、視察に訪れたユネスコの委員らが見たのは、ゴミだらけの汚い富士山だった。なんて汚い山だ、という汚名を貼られてしまう。結局、95年に登録されたのは「白川郷」だった。
今現在、富士山を世界遺産にしようという動きは鈍くなっている。が、自然遺産として登録することが無理であれば、江戸時代から浮世絵に使われ、明治の文豪たちもこぞって描いた「文化的価値」から富士山を登録しようとする動きもジワジワあるという。個人的に、僕は富士山が日本の象徴であり、だからこそ世界遺産に!という考え方は、安易だが賛成だ。

96年、広島の「原爆ドーム」と「厳島神社」が世界遺産に、同時に「古都奈良の文化財(8つの寺社)」も登録された。4年連続で登録ラッシュだった日本の世界遺産も97年の登録はなし。翌年、98年に「日光の社寺」が登録された。関東圏初の世界遺産ということもあり大きな話題となったのが記憶に残っている。そして2000年、サミットに2000円札にと、何かと話題の中心だった沖縄から「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産に。その後の動きはもう記憶に新しい昨年の和歌山を中心にした「熊野古道」と今年の「知床」という流れになる。

今回の「知床」は自然遺産としては93年の登録以来になるので問題提起も多い。それは、白神山地も、そして特に屋久島においては、登録後観光客が押し寄せ、そこら中に「ティッシュペーパーのはなを咲かせた」というのだ。つまり、ゴミ問題しかり、トイレのない山の中で用を足すという破壊。それでなくても知床は大観光地だ。それをいかにして守るか。規制を敷くか。昨年登録された熊野古道では、林道が使えなくなり、周りの林の持ち主が伐採した木の搬送ルートに困り、世界遺産反対というペンキによる落書きを書いた。その落書きを見るために?人はまた詰めかけるという効果を生み、自治体としては「観光客による経済効果」をとってほくそ笑んでるようにも思える「無対応」に徹している。

なんだ、これは、、、と思う。つまり、人類が、僕たち地球人が共有すべき、守るべき遺産を、その効果に期待して招致するかのような活動や、その逆に、それを絶対反対する動きが混在して、地域発展、村おこしの「のり」で声をあげているのではないか?
基本的に、現在世界遺産に登録されている所が、それに値するだけの「価値」を有することは認める。が、それならここは?という気持ちもある。それが乗じて「競争」や「対決」というものを生んでいるのなら、全く無意味で意に反している。
姫路城と松本城の違いは?京都の文化財だって天龍寺(世界遺産)と知恩院(世界遺産ではない)の違いとは?という疑問が常について回る。
今、石見銀山と並んで世界遺産に名乗りを上げているのは、平泉、鎌倉などの歴史地区や小笠原諸島、琉球諸島などの自然地区らしい。

世界遺産に登録されて、注目を浴び、危機に瀕していたアンコール遺跡群は蘇ったことは確かだろう。タリバンによって崩壊されたバーミヤンも世界遺産だったらもっと世界中からの反対があったかもしれない。だから、世界遺産として登録することに意味はある、とも言えるかも知れない。が、どうもここ最近の「世界遺産」からは、遺産よりもまず、その地域の、「人」を守るためのものに思えてしょうがない。そして、助けるために落とされる「金」に付随して踏み荒らされる遺産が、よりいっそう荒れていくように思えて、悲しい。世界の目が向かなければ守れないという現実と、注目されればされるほどより危機になっていく事実を、どこでどうバランスをとるか。

知床の今後の対応は、そのことの試金石にもなるし、この後、世界遺産とは旅行会社がパンフレットでよりキャッチーに謳うだけの「要素」でないということを、同時に僕たちの間に浸透させる必要があると思う。


→ essay top