先日、事件当時未成年だった3名の被告に、高裁の死刑判決が下った。事件から11年が経ち、すでに三十を超えた被告3名は、実名が明かされることなくX、Y、Z被告と記される。最高裁に上告して、判決が確定するのは、まだまだ先である。ちなみに、最高裁で「死刑」が確定したのは、今年(2005年)だけで8人。一審、二審も含めると32人にのぼる。

「極刑に処す」。すなわち、それ以上にない刑罰をもって処罰する。現在、日本の刑法では17の罪状で死刑が規定されている。そのほとんどが「殺人」を犯した者への処罰だ。過去のケースから、2人以上や、3人以上と複数人に及ぶ殺人にのみ死刑が適応されているようだ。

あなたは、死刑制度に賛成ですか?

悪いことをしたのだから償ってもらう。殴ったから殴られ、盗られたから取り返し、殺したから殺される、のか?死刑制度については、今、世界の6割の国で廃止している。アジアを中心とした4割弱の国で未だこの制度は残っている。対照的なのは、一部の州で死刑制度を残しているアメリカと、ほぼ全域において死刑制度を廃止しているヨーロッパ。そんな世界の動きを理由に、または、よく言われることだが「極刑があってもなくても凶悪犯罪者の歯止めにはならない(減るわけではない)」と反対する人が多い。映画『グリーンマイル』や『ラストダンス』、『デッドマン・ウォーキング』などは、そんな死刑制度に問いを投げかける。

いや、違うぞと。殺された遺族の身になってみろ、と。いきなり小学校に入ってきて無差別に我が子が殺され、逮捕後も反省の色ひとつもない。または、通り魔的に夫を殺され、残された妻と子供はどうすればいいんだ。憎んでも憎みきれず、悔やんでも悔やみきれない。逮捕され、刑務所にいる間はもちろん、そんな奴が、社会に戻ってくるのか?絶対に許せない。頭ではなく、心で叫ぶ、「極刑以外には考えられない」と。

死刑制度。反対か、賛成か。つまり第三者的に見るか、被害者の側から見るか、または加害者の身内になってしまったことを想像して考えるか。それぞれによって違う。が、つまり一般論として、人が人を裁き、その裁量の範囲内に「人を殺す」という処罰が入るのか、という観点から考えると、非常に難しい。僕はあえてここで、「難しい」という言葉で逃げた。

在学中、僕はアメリカの暴力性について学んだ。暴力とは何か。それは往々にして組織の中に存在し、慣習化にこそ根強く残る。ある日、突然、消えて癒されることはない。死刑制度について、僕は反対だと主張していた。あれから約7年が経ち、今はどうか。

そもそも逮捕し刑務所に入れること。これは、危険な刃物を手の届かない高いところへ置くのと同じなのか?いや、危険なのだから捨ててしまえばいいということなのか。服役中の更正が、再犯率の高さが示すようにうまくいっていないから、「捨ててしまえ」「消してしまえ」の議論が出てくる、と仮に考えてみる。とすれば、殺した人間と、釈放された人間が同じで、いつ何時また…、と危惧するなら、そんな人間は社会の中に戻すべきではない。ここでも「そういう人ばかりではない」という議論になるだろう。ちゃんと更正した人だって、たくさんいる、と。確かにその通りだ。が、100人中、いや1000人中に1人だって更正出来ず、一度殺人を犯した者が再犯を犯すなら、おっかなくてしかたがない。例をあげると、今やオウム事件を超えるような残忍な事件が起こっているのだ。北九州で交際相手の家族全員を監禁し、電気ショックを与えて死に追いやるような犯罪。もしあの被告が、更正して出てくるのか?死刑の次に重い判決、無期懲役になったとしよう。15年、たったそれぐらいの年数で出所するのだ。北九州の遠いところの話、ではないかもしれない。隣に、または、知らないうちに身内が、もしくは自分が、被害者になりうるかも知れないのだ。怖い、話である。

話をもとに戻す。大学を卒業してから7年、僕は死刑制度についてどう思うか。今の現状、賛成に変わった。それは下記の2つの理由からである。
1) 死刑が求刑されるような被告の犯した犯罪(多くは殺人)において、十数年で更正はされるとは考えにくく、一部の例外、というのも除くことができない「社会」という場に自分がいて、そこで共存する訳だから、やはりリスクを考えてしまう。
2) 仮に死刑制度を廃止した場合、その次に重い処罰が無期懲役であるところに、一番の問題はあり、ヨーロッパで死刑制度が廃止された背景に懲役年数の加算方式があるように、日本でもそれを取り入れるべきだ。例えば、ひとつの犯罪に複数の罪があるなら、それを足して懲役120年など。そうすれば、実質上の死刑に近く、倫理面からも見ても反対論者の主張には当てはまらない。ただ、刑務所にはそうするだけのキャパシティがない。今でも犯罪者は溢れ、刑務所が満杯なのだ。また、恩赦などの制度で、どっと社会に戻ってくることもあり得る。さらに、これはかなり空想上(今のところ幸いにも)ではあるが、自分の身内が被告になった場合、遺族の気持ちと被告である身内への気持ちを天秤にかけてもなお、心情からして極刑が望まれるなら、それを否定するだけの自信が、ない。

つまりは、今の日本で、近い将来、3年、5年のスパンで考えたときの死刑制度、反対か賛成かの意見であり、また7年後、変わるかも知れない。倫理面、被害者の心情面、あらゆる所から考えて、いつかはきっと「死刑という判決」自体がなくなるのが、望ましい。それだけははっきりしているのだが。



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死刑という判決

2005年10月16日