昨年7月のロンドン同時多発テロ、そして、今年の旅客機テロ未遂事件。
これらの真相が明らかになる中で、ふと「信じる力」というものと、その方向性に恐ろしさと根本的な疑問を感じる。イギリスという国で生まれ育ち、それまで「普通」だった青年が、突如変貌したかのように見えるその姿から、宗教とはいったい何なのか、神の名の下に遂行する「殺人」とはどういうことなのかを考えさせられるのだ。

例えば、日本が戦争へと突き進んだ時代、転がりだした石が岩となり、その勢いを止められぬまま岩の一部となって「くっついた」大勢の人が、巨岩となって底の底、どん底まで転げ落ちた。大きな流れというものに「待った」をかけられず、同じ方向への膨大な力のベクトルを向けてしまった。メディアはそれを大きな反省だと一様に論じている。

宗教の問題ではないが、民族対立にしても同じことで、それを淡々と描いた映画『ミュンヘン』(S.スピルバーグ監督作品)では、殺しても殺してもそのポストに後釜が出てくる現状と、暗殺し続ける果てのない「連鎖」を表してる。映画の出来云々よりも、その現実を知らしめただけでも大きい。

信じる=宗教と言ってしまえば少々暴論に過ぎるが、例えば、それに近い現象として日本でもオウム事件はそれにあたるのかも知れない。

僕たちは、誰しも細く小さな力のベクトルを四方八方へと発している。
あまりにもバラバラなので、やりがいがないとか、信条、もっといえばアイデンティティすらも実感できずに虚無感をなめている。そんな時に、ある言葉や考え方がふっと心の中に浸透して、明確な「的」(ないしは「敵」)が示されたとき、それまであてもなくバラバラに発せられていた力が、水を得た魚のように一気にひとつの方向に向かいかねない。そうして、力を「分かりやすい的」に向けている方が、楽にさえ感じるのだろう。例えば、アメリカという敵に向けるベクトル。その途中にある「光景」などいつの間にか消え去るのかも知れない。

これは、現在伝えられる所の報道を読んで思ったことであるが、ロンドンのテロは、実行犯や主犯格とされる若者が、同時期にパキスタンのある「神学校」に通い、そこで何かしらの関係を持ってテロを企てたと言われている。そこで示された「的」に向かって、それまで「散発」していた力を、一気に同じ方向に向けたわけだ。アラーの神に従って?……「コントロール」された、とあえて言ってしまってもいいかも知れない。

たまたまこれがイスラム教という宗教の教えであったことから、僕は「信じる力」と銘打つことにする。アラーの神の教えがあり、それを学んだ人が「信仰心」を持つ。そして、毎日祈り、日々の暮らしの糧にする。キリスト教だろうが仏教だろうが、信じる気持ちは同じで、むしろ、そういう信仰心の薄すぎる日本人は、外国人にはしばしば奇異に映ったりもしている。ただ、大切なのは、その信じるという力の方向性だ。

宗教は、教えを受け、自分の中で処理し、そしてその「力」を【自分】に向ける。そうして日々の生活の糧にするのだと僕は思う。それを扇動するかのように「的」を設け、みんなで同じ方向へ向かわせるは、もはや宗教ではない。一部、過激派や原理主義と呼ばれる人たちの中に、その誤ったベクトルを、それも大切な自分の命の全てをかけてまで、「的」に向けているのは、同様に宗教とは言いがたい。聖戦?神の名の下に?……、どうも違うような気がする。

確かに、今、中東諸国にある問題は根深い。そこにアメリカという超大国の「ダブル・スタンダード」が不快感や不平等感を駆り立て、その「怒り」のベクトルがテロへと向かわせている。

だとすれば、その「怒り」を沈め、よりよい解決策を導き出すのが「宗教」ではないか?
信じる力のベクトルを「自分」へと向け、日々祈り、良い策を講じる。そんなマップが描き出せれば、アラーの神の下で、平和の共存という世界共通の目標へと歩み出せるかも知れない。その時、世界は(例えば国連は)、全力をもってその平和への道を後押しするだろう。

つまり、今、中東など多くの国で行われている「テロ」行為というものが、民族(祖国)や宗教という都合の良い括りのなかで集合化しているが、どこか「怒り」や「復讐」という気持ちのベクトルを一方的に、ないしはお互いに向かい合わせているだけのような気がして、そこに冷静な「信仰心」が欠如しているように思えて仕方がない。

仏教徒の僕は、正直言ってキリスト教やイスラム教がどのような教えを説いているのか本当の意味では知らない。が、もっとシンプルに、もっと根元的なところを読み解いていくと、殺しや暗殺、集団虐殺などという行為は出てくるはずもないだろう。なのに、テロへと走るのは、信仰心から大きく外れ、他のファクターが付け加えられ、まるでガソリンのようになってベクトルにパワーとスピードを与えている。「怒り」に任せた「的」へ向かうベクトルに。

今一度「信じる力」を見つめ直し、その力のベクトルを自分自身に向け直すことが必要だ。そして、そこから導き出した回答は、本当に爆弾を身体に巻いて突進することなのか?液体爆弾を機内に持ち込むことなのか?軍事施設だという理由を付けて空爆することなのか?考え直すべきだろう。そのための「信仰」であり、自分にむけるべきベクトルなのだ。ダイレクトに、何も分からないまま大きな潮流にのって「捨てる」命でも未来でも平和でもない。

今日もまた、多くの人がテロによって死んでいる。



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信じる力のベクトル
2006年8月20日