親権と虐待
2010年12月19日
児童虐待のニュースが後を絶たない。子どもにとって絶対的な存在である親。その親から受ける「虐待」は、子供の「すべて」の世界を閉ざすことになる。その分、罪は重い。
家庭が聖域だった時代、その事実はいくつも見過ごされていたのかもしれない。それが、殺人にまで至るケースが増え、各メディアが報道しはじめると、様々な処置がとられるようになった。それでもなお、虐待がなくならないのは、親が持つ子どもの親権と、それがあるからこそ踏み込みきれない親子(家庭)関係にあるのだ。
そもそも親権とは何か。「未成年の子どもを育てるために親が持つ権利と義務」として民法で定められたものだ。生活全般の世話や教育を行う監護権、財産管理や契約を行う財産管理権、しつけを行う懲戒権をはじめ居所指定権や職業許可権など幅広い。親権者としてふさわしくないと判断すると家庭裁判所が親権の喪失を宣言できる。離婚する時には、父母のどちらからを親権者と定める。親権者を持つものがいなくなったときは法定代理人として、未成年後見人を選出できる(朝日新聞参照)。
このほど、虐待する親の親権を最長2年間停止出来るようにする児童虐待防止策が、民法の改正で決まった(2010年12月15日)。これにより、親から離して児童養護施設などで育てている子供が手術を受ける際も親権者の同意を得る必要がなくなった。また、親権を喪失するわけではなく停止させるという柔軟な処置が、児童相談所など現場からは、親から子どもを引き離しやすくなるなどの声があるという。
子どもへの虐待。同新聞のデータでは、身体的な暴行のほかわいせつ行為、著しい食事制限や長時間の放置などの育児放棄(ネグレクト)、心に傷を与える言動など、児童虐待による死亡例は107件(128人)に上るという(2008年度)。
子どもを産んだから親に「なれる」わけではない。もはや周知のこの事実が、まだ「望まれて生まれてきたわけじゃない」子にとっては深刻だ。親と子。特に母子の間には、ある種の先天的な繋がりがあるという。母親は胎内のリズムが出産することで変わるとも言われるし、子どもにとっては「どんな」親であれ、それが絶対で一番の存在なのだ。そこに「虐待」が入り込むと、第三者が立ち入って解決するには難しい点がいくつも存在する。
つまり、民法がいくら定めようと、頭で理解する「権利」や「義務」を越えた感情が親子にはあり、虐待と絶対的な愛情が一定ではなくコロコロと姿を変える中で、第三者は判断し、決断しなければならない。子どもを実の親から離して育てる。これは、その子の一生の問題につながるわけで、慎重に対処しなければならない。
聖域。それは過去のもののように言われるが、まだまだ実情としては残っている。子どもはかわいいときも、「そうでないとき」もあり、親の感情がアンバランスだと、そのどちらの顔も「異常」に現れてしまいかねない。誕生までに自分の体内で育てる。そして、腹を痛めて産む。その後、その親が子供を殺してしまうような虐待にはしる。
人間対人間である親子関係の中で、権利や義務が絡むから複雑なのかとも思う。私は、親権というある種の「机上のモノ」に、虐待という感情のものをからめても答えは導き出せないような気がしてならない。
例えば、しつけを理由に虐待ではないと主張した親がいる。それを第三者が否定しても「親権者」である以上、認められてしまうのだ。背中にあざがある、生傷が絶えない。そんな子どもに気づいた時、虐待を疑ってみること自体にどこか「失礼」さを感じてしまう日本社会では、その境目は難しいのだろう。だから目を背けては「そういう役割の人」に任せてしまう。そういう役割の児童相談所の職員は、言ってみれば権限もあるかわりに、やはり親権を武器にされると、それをまた机上のモノで対抗するしかなくなる。今回の親権の2年間の停止という法改正は、そのために「やりやすくなる」とされるのだ。
が、そうだろうか。母乳を与え、おむつをかえ、空腹を訴えて泣けば食事を与える。それが辛いという正直な「親」の感情は、成長する子どもの姿でお返しされているようなもので、それが健全な親子関係だ。子育ての中で、感情的になるなというのは無理な話で、カッとなって手を挙げてしまうこともあるだろう。それを補って余りある愛情が、強く抱きしめることなどに現れれば、親子関係に歪みはなくなる。
歪み。虐待という歪みは、その愛情がなくなるから出てくるわけではないのだと思う。親の愛情が子どもへ「しっかりと」向けられない、もしくは、子どもに愛情を与えるだけの余裕が親にないという状況下だと思う。感情で殴ってしまう。泣いている我が子を見て、ハッと我に返って抱きしめることすら出来ずに、その泣き声にさらなる感情剥き出しの怒りを感じる。そして、より一層の虐待をはたらく。この状態に陥った親に、「親権の停止」だの「親権の喪失」などは違うように思える。子どもを保護する「施設」が他人すぎて、そこに「取られる」と感じる親と、親を失ってしまうと感じる「子ども」の先天的な結びつき。そこに机上のモノでメスをいれようとしているに過ぎない。
生傷が絶えない、泣き声がする。それを聞いた近所の人が「どうしたの?」と玄関のドアを叩くことは不可能なのだろうか(不可能なのだろう・・・けど)。泣き叫ぶ子どもを感情が高ぶり正常さを失っている親から抱きかかえて避難させ、一晩でも「自分」の家に避難させることは不可能なのだろうか(不可能なのだろう・・・けど)。「自分の子どもに何をしようが親の責任で、他人のあんたには関係ない」とすごまれても、「子どもに何をしてもいいほど、親は偉くない(ドラマ「さよなら、小津先生」の台詞より)」と本気でぶつかる学校の先生や近所の人たちを求めるのは不可能なのだろうか(不可能なのだろう・・・けど)。
不可能なのだろう・・・と思っているそれらのことが、例えば本当に不可能なのかを考えると、意外に、そう難しいことでもないように思える。そう難しいことでもないようだと思える社会が、単純に言えばコミュニティの成熟した社会であるなら、それを「実戦」してみればいいのに、とも思う。それすらせずに、他人すぎる「そういう役割の人」に任せきりなら、この問題は解決しないだろう。
虐待の末、我が子を死なせる。これはもう犯罪なのでコミュニティがどうのというレベルを超えているが、その前段階として、そこにまでいかない間に、「聖域の家庭内」の風通しをよくすることが、大事に思えてならない。虐待は、机上のモノ(イメージとしては紙をちらつかせて正当論を言う)だけでは、解決できるケースは最後の最期、本当に深刻になってからの氷山の一角だけで、そこに至るまでの大部分を救うことにはならないのだと、私は思うのだ。
→ essay top