長崎県佐世保市の小学女子児童による同級生殺害事件を受けて、今、小6の存在が何かと話題だ。名古屋で脅されて数十万円払っていた「小学6年生」とか、不登校児が増加する「小学6年生」とか。今までならそれほどニュースとしての価値を見いださなかったことが、小6という共通項でどんどん流されている。これは、97年の神戸児童殺傷事件の犯人であった少年にちなんで世間が14歳、中2に注目したのと非常に似ている。
ふと、思い出した。14歳の少年、酒鬼薔薇聖徒が事件を起こした時、家庭教師をしていた僕は、同年代の生徒に「どう思う?」と聞いてみた。帰ってきた答は、実に客観的であり、特異な少年が犯した特異な事件だろ、というものであった。それは、当時、大学生だった僕が持っていた感想となんら変わらない。そういうものか、と思った。
僕はいつも思う。大きな事件を犯した犯人と、年齢など同じ立場とされるものたちを同一視して「予備軍」などと認識することの怖さと誤りを。少年犯罪しかり、例えばテロ問題。中東方面の人、ってだけで予備軍になったり、北朝鮮問題だってそうだ。もっともっと時代をさかのぼれば、真珠湾攻撃後のアメリカ国内における日本人の扱われ方も…。なので、ここで僕が書く「少女A」は、今回、殺人事件を犯したあの少女だけに絞ったことであるということをことわっておきたいと思う。
とはいえ、現在、精神鑑定に回されているこの少女に関する情報は非常に少ない。犯行に至るまでの経緯、そして、実際に殺人という最も凶悪な犯罪を犯してしまったという真理はこれから時間をかけて紐解いていかなければならないのだろう。単純に、バトル・ロワイヤルがどうとか、インターネットの書き込みがどうとか、そういうものでもない。
この事件の一報を聞いたとき、一番ゾッとしたことは、給食時間までの間、つまり犯行までの午前中、同じ教室の中で殺意をもった少女とその標的とされた少女が、いつもと同じように教室にいて授業を受けていたということだ。それは、決して周りからは見えないものであった。半日後に起こる自分の運命みたいなモノが、僕の半日後にも恐怖を覚えさせる。
問題は、つまり「ここ」にある。メラメラと燃える殺意、決して許されないが、何となくでもわかり得る理由。それらが、この少女Aにはなかったのでないかと思われてしょうがない。「殺そうとは思ったが、殺すことの意味は分かっていなかった」と誰かが言っていたが、これは正に的を得ていると僕には思える。
例えば、バラエティ番組の罰ゲームか何かで、高さ数十メートルの飛び込み台からプールに飛び込む若手芸人の姿をテレビで見る。最初は、「怖いだろうなぁ」という現実感に似た感情が起こるが、その映像ばかりを見ていると慣れてしまい、さらに、テレビ画面を通して、それがいとも簡単に行われるようになると、自分にもできる、という錯覚をおこしてしまうのだろう。そして、実際に自分も数十メートルの高さを持つ飛び込み台の上に立つ。
ここで、僕なら、きっと足がガタガタ震え、竦み、そして実感することと仮想することのギャップの前に屈してしまう、だろう。
しかし、少女の場合。まだ十数年しか生きていない経験の少なさ、それに比例して実感したことの乏しさ。そこに大量に流される仮想、空想の世界。空を飛び、力が強く、悪者(自分とは違う意見を持った行動をする者)を最後には懲らしめ、殺してしまうというハッピーエンドの物語。そこに埋没してしまいリアルとバーチャルの境目を超えてしまう。…確かに、そういうこともあり得るだろう。だから、犯行に及んだと結論づけるチープな見解は無視したとしても、実際に椅子に座らせ目隠しをして、そして、頸動脈をカッターナイフで切ってしまった彼女のリアル感のなさには注目すべきだ。つまり、実感の前にガタガタ震え、竦むことのない無感覚さ。
これは、あらゆる欠乏の上に建て増しされた知識が引き起こす不具合であり、病理であると僕は考えている。実感の欠如、その後を想像する力の乏しさ、そして何より、命っていうもののとらえ方。
殺人を犯した少女Aと同じ年齢なり近い立ち場の子供を、だからどうのと言うことは冒頭でも述べたとおり誤りだ。が、別に小6じゃなくても、女の子でなくても、自分にはそういう現実感ってものがあるか。自分の子供はどうか、と一度考えてみることは大切かも知れない。
現在、あらゆる科学技術の発展により、「いい」ことが増えてきた。過疎の村に住む老人の診察をITを駆使した遠隔操作で診療しようという動きや、不登校児が、学校の教室に実際いかなくても、自分の部屋で双方向的通信を使って授業をする形態など。確かに便利だし、診療する、とか授業を受けるという形だけの問題でいえば代替と成りうる。が、ここには、医者の温度、先生の表情、病室や教室に漂う空気感、それらすべてが、ない。ブラウン管を通して流されるフィクションとますます変わりがなくなる。そのうち、と僕は危惧する。目の前にあるもの、実際に触るものまでもが、すべてバーチャルであるという時代が来て、「あっ、今のは本物やった、間違えて消しちゃった」ってニコニコ笑う人が現れないとも限らない。今のうちから、雨に打たれて冷たさを、手作りの温もりを、叩かれ蹴られた時の痛みを、実感するように心がけたい。そして、他人と向き合いたい。そんな風に僕は思う。何とか対策委員会が大袈裟なことをするまでもなく、一人ひとりが実感するように心がける。子供にもそうさせようと親が心がける。これこそが、第二の少女Aを生まないための対策であると思うのだが…。 どうでしょう?
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