ただの現在にすぎない
2008年11月03日
ソ連の革命家レオン・トロツキーの言葉に「おまえはただの現在にすぎない」というものがあり、出版業不況で雑誌休刊の嵐が吹き荒れる中、幻冬舎社長・見城氏は「雑誌が生きづらい今の時代は『ただの現在にすぎない』」として自分たちがラジカルだと思う新しいことをやって「現在」を退けるしかない、とインタビューに応えている(朝日新聞より)。

現在。アメリカのサブプライムローンに端を発した金融不況が、市場経済を通じてグローバルに広がった。欧州、アジア、特にBRICsなど新興国をも巻き込んで、1929年から始まった大恐慌と重ねられることも多い。BMWやフォルクスワーゲンといったドイツを代表する自動車メーカーは数千人単位の解雇を決め、日本の電気大手パナソニックも生き残りをかけて三洋電機の買収を決めた。株価は下がり、信用の上に成り立つ市場経済は不信が妨げとなってよどみ始めている。日本経済を引っ張っている輸出産業も、円高のあおりを受けて軒並み下方修正を繰り返している。それでも減益見込みという厳しい状況だ。

その現在に対して、「じっと」していてはいけないと、政府は3年後の消費増税をもとに大減税を発表。日銀も世界の状況に押される形で金利を下げた。

この今の時点は、確かに不況で苦しい。ただ、それもただの現在にすぎないのだ。ここで「明日」を見据えた「何か」を固めておかないと、苦境の現在の延長線上になりかねない。

大型車がどんどん売れる中、トヨタは莫大な資金をつぎ込んでハイブリッド車をつくり、エコブームとガソリン代高騰の時代に花咲いた。日系航空会社で旅する人が大半の中、当時だれも目を向けなかった東南アジア系航空会社と繋がりを深めたHISは、格安航空券に煽られた個人旅行の時代をリードし続けている。漫画家手塚治虫は、先頭を走ってきた自分の画風が、1960年代後半から台頭してきた「劇画」にくわれ、作家生命は尽きつつあるといわれたが、40代半ばを過ぎて劇画を取り入れた描き方にシフトし、「ブラック・ジャック」という名作を世に送り出した。

これら3つの例が示すモノ。それは「現在」が苦境にあるとき、「明日」に向かって揺るぎない「何か」が持てるかどうかということなのだろう。例え、描き方という「表面」を変えても、根本に揺るぎない「人間たちへの愛と期待」を感じさせた手塚治虫のように。ちなみに、どうすれば未来志向の発想ができるのかと聞かれた手塚は「まず暗い想像を全部してしまったら、反対の明るい未来のイメージが出てくるような気がします」(日本経済新聞より)と応えている。

逆に「現在」が好調にあるとき。任天堂で「Wii」の大ヒットを受けた開発チームの一人が「次を考えるプレッシャーになるという一面もある」と答えていたのが印象的だ。つまりは「今を生きろ」という強烈なメッセージには、「明日のために」という続きがあって、それを時代の潮流や「へんな紛い物風の噂」に流されずに「一本筋の通った『これ』」というものに従って。とかなんとか、わかってはいるのだが。

現在、確かに物の売れ行きなど数値的に言って不況だ。高級なものと格安なものの二極化にも限度が見え始めている。

その中で、企業は新たな付加価値をつけようと、ナイキ社を例にとると「環境」というキーワードを持ち出している。環境に優しい製品、つまり生産過程で接着剤を有機溶剤から水性に替えたり、燃焼時に有害物質を出す塩化ビニルの使用を控えたりなどの「大替え」を2020年までに完了させると発表した。環境問題から今後ニーズが高まるだろう太陽電池においても、これまで世界のトップを走っていたシャープを抜き、首位に躍り出たドイツのQセルズ社。BMWが苦境の中で、次を見据えた太陽電池に、同じドイツの、それも設立してまだ9年の会社がトップになるのは、欧州の環境対策の奥深さを物語っている。

他にも、今後ますます需要が高まるものとして、日本経済新聞論説委員長の平田氏は、再生医療、ハイブリッド車、電気自動車、海水淡水化装置などを挙げている。景気を左右する産業ではないこれらの事業に、「ただの現在」からの脱却としてどれだけ準備出来るか。それも、「一本筋の通った『これ』」というものをもって。そういう企業が「明日」に輝くのかもしれない。そんな未来も、そのときになれば「ただの現在」にすぎなくなるのだけど。

今は、ただの現在にすぎないのだ。この言葉の持つ意味は、共産主義者が放った一言だが、真に自由主義市場経済にも当てはまる。というより、一人の人間の人生という大きなものにまで、的を得ているように思うのだ。

『これ』という筋の通ったものが、現在では通じない現状を、だからといって他のもので代用するのではなく、「方法」や「方向」を少し替えるだけで、『これ』の進む道は明るくなるはずだ。それを信じつつ、今は、「ただの現在にすぎないのだ」、ってね。


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