ここまでくると、異常と言わざるを得ない。
今年に入って続発している飛行機トラブルである。

1月、新千歳空港で羽田行きの便が管制官の離陸許可を受けずに滑走を開始したというニュースが流れた。これが「おい、おい」の一発目だった。その後もでるわでるわ。月1のペースでニュースが流れる。強度不足の規定外部品で飛行したり、滑走路の誤侵入、機体最後尾を滑走路に接触させたり、左主翼を高速作業車に接触させたり。まだまだ、ある。訓練期間を満たない副操縦士が国内便の発着を6回も行っていたり、機内食の配膳用カートを収納しないまま着陸したり。すべて、JALのことである。

5月31日付けで日本航空の兼子勲会長が取締役を退任した。やっとか、という思いもあるが、本気で「止めよう」としているのは分かった。しかし、トラブルは「止まらない」。6月に入って、着陸時にタイヤが外れるという事故を、また起こしてしまったのだ。

これはもはや、止めることができないのではないかと思い始め、だから余計に怖い。

「鉄の塊が空を飛ぶなんて信じられん」と飛行機嫌いは言い、「いや、金属の塊ではあるけど、鉄みたいに重くはない」と、僕のような飛行機好きは言う。
それに、と付け加えて「飛行機はフェイルセーフ構造(fail safe)でできていて、一つがダメでもちゃんと予備があるから安全だ」とも言っていた。一つひとつも極めて高い安全性と高機能をもって作られているが、万が一、それらにトラブルがあったときも対応できるように、さらに予備がある。大きなところで言えば、パイロットは二人いるし、エンジンだって4つ付いている。水兵垂直尾翼、窓に至るまで、フェイルを想定して、その上の安全基準を持っているのだ、と。これは元タイ国際航空の整備士、エラワン・ウイパー氏の著した「ジャンボ旅客機99の謎」(二見文庫)からの引用だった。

なのに、である。先日、全日空の旅客機が計器故障で高度を誤ったまま40分間も飛行していたというトラブルを聞くと、フェイルをセーフに変える構造もあてにはならない、と思ってしまう。

僕らは今、ヒューマンエラーという言葉に敏感だ。JR宝塚線の事故で「安全なシステム」構築の必要性とその上にさらなる「人」のスキルが加わって完全になると思わされている。
「そんなことはわかっている。必死にやっている。こんな時期だから、より慎重に、より確実にやっているんだ」と、整備士やパイロットは言うでしょう。だけど、また昨日、全日空の機体がオイル漏れを起こして伊丹空港(大阪)に緊急着陸した。いまや、「飛行機で死ぬなんて宝くじにあたるような確立だ」とか、「そんなこと言い出したら、道路を歩いて車にひかれる方が心配」と放言していたことが懐かしい。

止まらないトラブルを止められない航空会社。これは完璧なる欠陥で、今までと同じようなチェックなりシステムを、いくら「慎重」に(いつも慎重じゃなきゃいけないのだが)やったところで、それはまるで、見直しを何回やっても間違えてた試験の答案用紙のようだ。

一度、一から全てを変えてみて、一々面倒なことを「しっかり」とやることが大切ではないか。大切?など、そんな程度ではない。必要不可欠なのだ、と飛行機利用のもっぱら多い僕は思うのである。

今年の夏、群馬県御巣鷹山で起きた日航機墜落事故から20年になる。信楽鉄道の事故を受けても、同じように事故を起こしてしまった鉄道会社の二の舞だけは、勘弁である。それは許されない。


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止めることが、できない

2005年6月18日