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トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』に登場する自由奔放な女性・ホリーは、自分の名刺に「旅行中」と記していた。

「ミス・ホリデー・ゴライトリー、トラヴェリング」

この一文にひかれ、「トラヴェリング」という言葉が「居場所」として成立する不思議に、僕はあこがれに近いものを感じる。

マンハッタンのアパートメントに住む彼女の居場所は「トラヴェリング」。スパニッシュ・ハーレムで迷い込んだ「猫」に重ね、「アフリカの掘っ立て小屋であれ、なんであれ。」、落ち着く場所が彼女にあれば……、(きっと彼女は幸せだ)。

旅行している=生きている、という人生。

かつて、僕は旅先で出逢った人と「アドレス交換」をしていた。住所、氏名、電話。その電話番号が携帯電話になり、住所の代わりに連絡先が「メールアドレス」になり、今ではすっかりホームページのURLを記すようになった。

「定住」というのが「家」なら、僕は今住んでいるところに来年居るのかすら分からない。そういう現状を「トラヴェリング」と考えると、なぜかしっくり来る。時代のせいだろうか。

カポーティはホリーを「不思議」な人物として描いたのか、「新しい」人物として描いたのか。仮に後者だとすれば、この作品の発表から50年ほどの間に、世界は「新しく」なった。

トラヴェリング。旅行中。「だから連絡はつかない」という自由が、「どこにいてもココなら大丈夫」という携帯電話・Eメールまで、「新しい時代」になった現在の、「トラヴェリング(旅行中)」という生き方に、なんとなく、やっぱり、あこがれたりする。