若者の○○離れ
2009年09月12日
自動車、旅行、ビール。これらは若者の○○離れとよく言われる3つだ。東京などの都市部に住む独身の若者にとって、車は確かに必要ないかも知れない。余暇の過ごし方として、価格競争に走り単調で「安・近・短」ばかりに頼った旅行というものが、それほど魅力あるものに映っていないのも確かかも知れない。また、ロシアのウォッカ、フランスのワインなどのように、日本の若者にとってビール離れも深刻なようで。「深刻」なのは、むろんそれぞれの企業にとっての話であって、人が生きていく上で必要不可欠なものではない。

だからいいではないか、わざわざたいそうに記す必要なんて、それこそ不要だと思われる方もいるだろう。が、果たしてそうか?

少し話を戻して、企業にとって減少しているのは「市場」自体、若者の人口が減っている以上、それは同程度の購買需要があっても減少する。ので、ここでは数字的なことはひとまず置いておく。例えば、若者100人を集めてみて、10年前の二十歳と、今の二十歳では、旅行にいく人(特に海外にいく)の比率は減っているのかどうかの話である。比較可能な統計がとられているかどうかは定かではないが、新聞等でこれだけ言われるのだから何かしらの裏付けはあるのだろう。それに、実感としてもそれは正しいように思える。

車を買わない、旅に出ない、ビールを飲まない。
事故が減っていいか?形に残らない物のために金を使わずにすむので堅実的か?肝臓にやさしいか?

いや、気になる。どうも危惧する。この「自動車」「旅行」「ビール」という三つの要素から離れた若者は、「人との触れあいや、実感することから」離れていると思えてならないのだ。

それらから離れて、じゃ何をしているか。金銭感覚が単に変わって貯蓄する若者が増えているのかといえば、おそらくそうではなく、それらの「お金」をプレイステーションやWiiにつぎ込み、どんどん部屋の中でバーチャルな世界を広げている気がする。コミュニケーションを拒否しているのではない。繋がりを断ち切って、「強く」ひとりで生きている訳ではないのだ。ただ、光や回線を通じて、顔の見えない「誰か」と【軽く】繋がり、コミュニケートしている。痛みを伴わず「ファイティング」したり、アイテムを探りつつ「ボウケン」に出たり。

確かにファミコン世代だった若者も、「ゲーム」による偏りや隔たりはあった。が、それはまだ部屋の中の、一台のテレビの中だけの話で、どこかウズウズした気持ちというのがあり、例えば、テニスゲームに熱中していても、スムーズに動かない「プレーヤー」にもどかしさを感じ、コントローラーを投げ捨て「ラケット」をもってテニスコートに出かけたものだ。それが、今は「バーチャル」が「リアル」にあまりにも近づいた。しかも、部屋の中を飛び出し、世界中の「部屋」と繋がり、コントローラーひとつで思いのままのバーチャルを、まるでリアルのように感じられるようになった。それこそが、「自動車」「旅行」「ビール」離れにつながったと思うのだ。

車で出かけ、どこかに立ち寄って店のおばちゃんと会話することもない。
海外に出かけ、写真やネットで見た風景を目の当たりにしてしびれるような妙な感覚にハイになることもない。
先輩や同僚、後輩など世代を超えた「酒」の席で、酔いに任せて「より親密」な会話を交わすこともない。

実際のあれこれは、コントローラーで制御できる範囲を超えているのだ。
思い通りにならないことが多い。それをもって殺人に走ったりする若者の、いわば特異なケースを取り上げようというのではない。その制御を超えた触れあいの中から、実感する生の感覚というものに鈍感になりすぎているように思えてならないのだ。実際、ぼくの周りにいる数少ない「若者」と話していても、〈こう言えば、こうなる〉という人間のコミュニケーション力に疑いを持たざるを得ない人が多い。

面倒だ。これ一言で「離れて」しまう一見無駄に思えることには、実は何かしら大切なこともあるのだということを言いたい。
(むろん、だからといって車を買おうとか、ビールを飲もうなんて言うつもりは毛頭無い)

とにかくぼくは、今の若者が「人」を避けているように思えてならないのだ。
未知の世界に広がる要素を放棄して、今現在をあきらめの中で受け入れているように思えてならない。

荒野を目指した青年は、シベリア鉄道で何を思い、北欧から西欧に入って何を感じたのか。深夜特急に乗った若者も、パキスタンのラホールで何に戸惑ったのか。
世界の広さと至近距離の人間のぬくもり。思うようにならない事からサプライズ的な喜びまで、実感する全ては、果てしなく重要だと思う。

「ぼくは、そう思う」。この言葉も、知識だけのA君より、経験したB君の口から発せられた方が力がある。言ってみれば、本を捨てて街に出ろといった時代の、ある側面では近い状況が現在にはあるように思う。

動け(自動車で)。自分の手で触れろ(旅をして)。そして対面しろ(飲みの場で)。

石炭から石油、そして原理力、水素へとエネルギーは代わり、地球を飛び出して宇宙に拠点を作り始めた。時代は、疲弊と進化を続け、変化する。だがその変化の現れと、若者の○○離れの現象との間に、妙な違和感があるのは、人間として根本的な「実感」を避けているからなのではないだろうか。面倒をバーチャルの世界から排し、そこに安住する危険。ノーコントロールの中を「うまく」生きていかなければならない「本能的な力」の欠如を、コントローラーで誤魔化しつつ「生きている」。そんな【変化】の気泡が、この先大きなかたまりとなって吹き出さないことを願いつつ、ぼくはそんな風に思うのだ。




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