日曜日こそ夕刊を
2008年04月06日
ぼくは長いこと新聞をとり続けている。が、「夕刊は結構です」と断っていた時期が長かった。理由は、週1回しかない資源ゴミの日に、わざわざ紐で閉じて出すのが面倒なのと、もう一つの理由が最大だが、「読まないから」だ。最近は、夕刊セットでも月額がほとんど変わらないのでとっているが、それも考え物だなと思っている。
朝刊は、まだ起ききってない頭をコーヒーで覚ましながら、一時間ほどかけてゆっくり読んでいる。携帯のグーグルニュースで各紙のトピックスもチェックするが、やっぱり詳しく知るためには、新聞が今でも一番いい(ぼくにとっては)。
ニュースをいち早く知るために、もはや新聞は使わないだろう。
あの事件どうだっけ?とか、この略語どういう意味だっけ、という時は、インターネットで調べる。
となると、新聞は第一報を伝えるものでもなければ、スクラップして置いておくものでもないという、中途半端な所に位置しているわけだ。その存在意義は、まさか各社の思想を反映した社説なんてものでもなく、それは確実に徹底した取材ルポにあるのだ。取材と称して当事者に接近できるのも、名のある新聞社の名刺があるとスムーズにいくというのもあるだろう。そういった長年培ってきた貯金をつかって「インターネット」のようなことをやっていたのでは、勝ち目はない。
日本は、他の先進国に比べて新聞の発行部数が高い。2007年のデータで5,200万部(一般紙・スポーツ紙合わせて/新聞協会経営業務部調べ)。そのうち、1000万部以上の発行部数を誇り、ギネスブックにものった読売新聞が1位で、800万部の朝日新聞が続いている。これだけきまった新聞社のものを読んでいるというのは少し怖いような気がする。(※ニューヨーク・タイムズでもせいぜい100万部強というから、いかに日本人が「ほんとは新聞を読んでいないか」ということがわかる。とりあえずとっているという状態なのだろう。)
この発行部数をたてに、広告収入に走りがちで、加えて文字を大きくして読みやすくした紙面は、「詳しく書く」という新聞の最大の魅力を削り落としている。
特に、夕刊においてそれは顕著に表れている。旅行の安売りチラシか?と思うほど、同じようなディスティネーションの、同じような価格帯の旅行を色んな会社が広告合戦を行っている。紙面は、お昼のニュースでチェック済み、もしくは会社のパソコンで知り得たニュースをトップで伝えているのだから読む気もなくなってしまう。そこに限界を感じたのか、地元密着の紙面を大幅に増やしたり、アートや芸術、エンターテインメントまで、幅広く取り扱うようになったが、そこはどれも中途半端に終わってしまっている。
ふと思う。街のスポット情報やテーマパークの情報は雑誌やネットで調べる。イベントに映画にエンターテインメントも情報誌がある。となると、CDでいうオムニバス盤が売れに売れている状況から考えて、「いいところどり」したものを、今よりもっと幅を広げて扱うか、それには新聞社としてのプライドが云々あるなら、徹底した特集記事で埋め尽くすか。とにかく、夕刊にがっつりした読み応えを持たせて欲しいと思う。
昔、重松清氏の著書に「日曜日の夕刊」というのがあった。日曜日と祝日は夕刊が配られないから、彼の著書でもどうぞ、といったところなのだろうか。であれば、夕刊じたいに文芸誌並の分量で、連載小説をとりあつかってもいいのではないか。
基本時に、ぼくは新聞がなくなるのが嫌だ。それは、扱うニュースに偏りがあるとか、書いてる内容がどうとかいうのも、それがなくなる危険性よりも低いと思っているからだ。プロが気合いを入れて送り込んでくる記事には、読む方に伝わるものも確かに多い。だからこその提案である。
日曜や祝日にこそ「夕刊」を発行して、他は休んでもいいのではないか?
もっと追うべき事件はあるだろうし、特集を組んでじっくり半年なり一年なり連載すべきテーマもあるだろう。そういう、参議院的なスタンスで世の中を掘り起こしてほしい。
そんな「がっつり」した読み応えのある夕刊を、時間のある「休日」の夕方でじっくり読みたいものである。
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