臓器移植について
2009年05月31日
「是か非か」の一方を選ぶのは難しい。
臓器移植を考える時、この壁は分厚く高い。提供を待ち望み、その臓器提供によって助かる命がある「側」に立つ時と、例えば『闇の子供たち』(梁石日著)で告発されたような現実を目の当たりして考える場合とでは、是と非も変わってくる。

先日の朝日新聞にこんな言葉があった。
是か非の「二者択一的な結論を積極的に排除する必要」。

これは、曹洞宗の僧侶、木村文輝氏の言葉だ。「移植を認めなければ、それによってしか生きられない人の命を切り捨てることになる。認めると、臓器提供をしたくない人にまで提供を強いることになりかねない。二者択一的に論じることは、ある立場に同意できない人に苦しみを与える可能性がある。“人々の苦しみを取り除くこと”、それぞれの苦しみに応じた処方箋として、立場に合わせるべき」(朝日新聞参照)。

今、臓器移植のルール作り(その見直し)の議論がなされている(臓器移植法改正)。法整備を整え、先述の助かる命に手をさしのべることが急がれているようにも思う。が、これは「命」に関する倫理の問題。そう簡単ではない。木村氏の言葉も、「仏教」の目から臓器移植についてを語っており、その教義を関連づけて語っているのだ。“人々の苦しみを取り除くこと”が教義である以上、それぞれの苦しみに応じた処方箋として臓器移植を使う。提供する側・される側のどちらにも「苦しみ」があってはならない、と。

倫理感は宗教との結びつきが強く、人としての考え方であるだけに世界共通のルール作りも難しい。肉体と精神を別に考える宗教なら、臓器は「その人」の魂とは別物。移植することに抵抗は少ないのかも知れない。が、日本人の場合はどうだろう。ずいぶん昔に、ぼくはこんな詩を書いたことがある。

「このぼくの手は僕のモノですか?
あげることはできますか?
もらうことは可能ですか?」

その人の死は、その肉体(目に見える)の消失によって「幕」をおろすように思える。息が絶えても、その人の身体は、あくまでもその人だと……。だから、死亡確認後、「鮮度のいい」うちに取り出して他へ移す、というのは頭ではなく心が拒否してしまう。そんな人も多いだろう。


臓器移植に関して、子供の移植が特に問題となる場合が多いときく。日本で認められていない年齢の場合、臓器の大きさが違うので子供は子供から提供を受けるしかない。しかし、日本では禁止だ。となると、外国へ行かざるを得ない。それで本当にいいのか?というのが今回の改正案の大きな部分だろう。また、脳死の問題もある。身体にはぬくもりが残っているのに「脳死」が人の死になれば、その人は死亡ということになる。まだぬくもりのある身体に触れ、通夜、葬儀と「わかれの時間」を過ごすことなく「臓器の摘出手術」へと向かう「違和感」。この辺りをどうするかだ。提供の意思というのも確認が曖昧だったりするかも知れない。

ここでもう一度、「あなたは臓器移植に賛成ですか?」と聞く。

それぞれの立場にいる「すべて」の人にとって、苦しみを取り除くための処方箋。そのための臓器移植。仏教的なとらえ方で語られた先の言葉が頭の中でぐるぐる回る。なるほど、という気がしてくる。

ぼくはこんな風に考えるのだ。
「人は生きる権利があるし、生き続ける義務がある」と。

怪我をすれば治療するし、最低限の生活は保障される、視力は眼鏡やコンタクトで補助され、不自由のバリアはフリーになる社会構造が必須。自殺は生き続ける義務の放棄だからダメだ。

となると、臓器提供を受けて「生きる」権利を行使し、生き続ける義務を全うすることは「是」だ。そこに、臓器売買を仲介するブローカーがいるなら、それは「法の下」で裁かなくてはならない。それに関して明確なルールがないなら、国際的にしっかりと整備する必要がある。

「非」なのは、“身体はその人のもの”的な倫理観から来るのかも知れないし、はたまた人の生死にヒトの手を加えることへの拒否感からくるのかもしれない。が、それをもって臓器移植に「非」をつけると、現代の大きな流れ(移植技術が確立されたという事実)に逆行しかねない。ここでは「死」に対して言うが、人工中絶や避妊など「誕生」にしても同じ問題がある。是か非か。100対0で判断できる問題ではないだろう。が、「生き続ける側」へ、手をさしのべる移植であれば、やはり「是」にすべきではないだろうか。


脳死。これは最後に大きな問題だ。脳は死んでも心臓は動いている。ぬくもりがある。そんな親族(例えば)を目の前にして、「死亡」を受け入れられるか。ぼく自身、自信はない。今の医療技術では助からないかもしれなが、一週間後、どこかのだれかが画期的な治療法を思いつくかも知れない。そんな奇跡を信じたくもなるかも知れない。脳死については、先にのべた「生きる権利」の範囲内のような気がするぼくにとって、認めず、と言えるかもしれない。が、実際問題として、脳死状態での医療費の重荷、それに不随する様々な「苦」(これは脳死と判断された本人ではなく、その周りの人)を考えると、信じるに足る「一線」というのがあっても良いかもしれない。そこの線引き。

考えれば考えるほど堂々巡りになる。そんな中でまた、あの言葉が浮かぶ、
「二者択一的な結論を積極的に排除する」必要。脳死を受け入れる人(その意思がしっかりと確認できている場合や両親などの疑いの余地のない意思確認がとれている場合)にとって、脳死は人の死になり得るのだろうし、そうではない人にとっては死ではない。そんな曖昧な「基準」があっても、根本は、それぞれの立場で苦しみを取り除くことができれば、もしかすると、良いのかも知れない。

生きるための臓器移植の一方にある「他人の死」。お金や立場など、パワーバランスが介在する余地のないルールを整備し、そのルールの下で「それぞれの人の立場」で苦しみが取り除ければ、それが一番幸せだ。

是か非かではなく、「それぞれの人」の視点から考える。冒頭の仏教的視点は、ひとつの答えとして成立しているように、ぼくは思う。


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