1969年激動の時代。若きジャーナリストと活動家の関係を描くこの作品。まずは時代だなぁ、と感じるのがタバコを吸うシーン(人も場所も)が非常に多いこと。映画館でも吸えたのか、と発見できたり。後は、松山ケンイチ氏は時代を一気にさかのぼって、まったく違和感がないな、とか。

さて、作品。

日米安保も学生運動も、ヒッピーも知らないぼくは、アジトと言われると「オウム信者」を思い出してしまったりして。それでも、この時代の反発心というか勢いというか。自分たちが「変えられる」と思わせる何かが、静かでどんよりとした日曜日の編集部の部屋からも感じられるのが不思議だった。

学生運動が下火になり、学生自体が変わっていく中で、数を失ったマイノリティと化した活動家たち。彼らは、自分たちの行動にすら「間違ってないよな?」と自問したりする。世間の注目を引くために利用するマスコミ。スクープが欲しいジャーナリスト。表向きは「あつくても」、本音の所では自分勝手に結びついている「利害関係」。ジャーナリスト沢田が近づいたのは梅山と名乗る成年だった。

梅山は言う、「運動をやる前は音楽をやっていた」。文化とか芸術とか、同じレベルで「運動」がある。世間に対して、体制に対して、自分たちはコトをおこさなければならない。そのためには武器が必要で。武器を調達するためには金がいる。だから、梅山はカンパを求める。

「女抱きたいけど、ホテル代がないから金をくれ」と言っているのと同じ。

新左翼と呼ばれる活動家達を称してそう言い放つ台詞は、今の時代から見れば爽快だったりもする。

自分でコトを起こすこともせず、いいとこ取りだけをしようとする梅山の、最後は惨めだ。仲間との秘密も何もあったものじゃない。

梅山は思想犯なのか、単なる殺人犯なのか。

そんな男との関係を、ニュースソースの秘匿は守るべしを貫き通した沢田の晩年。

若き頃、500円で都内を放浪する企画をしていた。その時に知り合ったチンピラとの再開。

沢田は最後、「ちゃんと泣ける」男になっていた、のだろうか。


縦社会の会社での出来事が、そのまま世間とリンクして、それに正面から「おかしくないか」と言える者に接触して、結局、何かを期待していたのではないか。自分の過去を振り返ったときに、泣ける生き方。

そうやって生きる姿をこの映画は静かに強く描いている。



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2011年(日本)

監督:山下敦弘
原作:川本三郎
出演:妻不木 聡、松山ケンイチ、忽那汐里、中村蒼ほか