まずは、長い。本編だけで237分。予告まで含めてざっと4時間。羽田から4時間飛べば東南アジアの海上にまで辿り着く。その時間を「たいくつさせない」仕掛けがふんだんだ。が、確かに「疲れは、する」。

まず、敬虔なクリスチャンと盗撮というバランスがいい。そのアンバランスさというか。早くして母親を亡くした少年の「マリア」を追いかける気持ち。それは普通一般だが、父親に対してと、クリスチャン一家としての「枠」が少年の気持ちに微妙なズレを生む。そこからはエンターテインメントだ。父親から毎日懺悔することを強要され罪を意識するように言われる。性にだらしない神父である父と、罪を犯さない少年の「罪の意識」。これが崩壊に向かうのは、きっかけが必要なだけだった。「ある女」の登場で一家は崩壊に向かう。神父は女性への性を我慢出来ず、その罪に苦しむ。「愛」というより「性」。息子への虐待は続き、息子は「罪」を探す。性にだらしない父の最も許せない「性」に対する罪。パンチラ写真の盗撮。股間を撮る。その「技」の数々は、コミカルだ。非現実的に面白い。

勃起しない青年のマリアを求める一途な側面。この作品には三人の主人公が最後にリンクするという、いわゆるよくある形をとるが、まずは少年を勃起させるマリア、つまりはヨーコとの出会い方はとても文学的だ。いや、かなり用意周到に、ものすごく丁寧に周りを固めて実現する。小説のようなそれを映像でぜんぶやってしまうから「長い」んだろうな、と勝手に思ってみたり・・・。ヨーコと少年の出会いは、女装した少年(サソリ)として。ヨーコはサソリに恋をしたレズビアン。盗撮する「変態」にレズビアンという(変態)。勃起に誇りを持つなら、変態であることにも誇りを持つ。この「愛」をむき出して、ありのままの変態を認める流れは、現代社会へ何かしら投げかけもするだろう。この2人の「恋愛」を約4時間で描くわけだが、最後にパトカーの窓を割って「握手」するまでをただただ描く訳ではない。

その2人の間に、重要なファクターとして、新興宗教というのがある。コイケという女性のインパクトは凄まじい。少年に興味を持ち、後を追い、最後は破滅へと向かわせる新興宗教の幹部。少女時代に凄惨な生活を強いられる。性に対して、人一倍の嫌悪感を持つ。罰を強烈に意識して生きてきたともいえる。

少年はパンチラを撮り続けることで父親との関係を保ち、出会ったマリアとの距離を縮めようとする。が、運命の悪戯で、兄妹となり・・・。それを背後からずっと見ていたコイケが「家族まるごと」拉致する。新興宗教の「恐怖」の世界へ導く。そこからヨーコを助け出そうとする少年と、新興宗教との戦い。それを彩る「変態のカリスマ」としてのファクター。

とにかくこの作品は、少年が少年である時代から青年へと成長する過程を描く一大長編「小説」だ。行間で想像するべき映像を、ハイクオリティに提供してくれる映画でもある。

剥き出しの愛が生む悲劇。誇りを持って「異質」を求め、だからこそ陥りやすい罠。この作品をすべて通して「こういうことが言いたかった」と理解できるメッセージは一つではない。言葉にしようとしたら、ものすごくたくさんの言葉が出てくる。が、ただ一つ、別に言葉にしなくてよければはっきりしている、それをここに強引に記すなら「愛」ということになるのだが。

握手する愛。勃起しないように性欲をたった男が目から血を流す「悲しい」気持ちをふっきり、すべてを忘れてオンナとして逃げ込んだ先から、助け出された「マリア」との握手。これは壮大なるシンプルすぎる話だ。

見終わって、(ようやく終わって)、結局そういうことを強烈に思ったりする。



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愛のむきだし
2008年(日本)

監督・脚本:園子温
出演:西島隆弘、満島ひかり、安藤サクラ、渡辺真起子、渡部篤郎ほか