「マクドナルドだ」

少年Aとして思春期を塀の中で過ごし、24歳で釈放されたジャック。保護官のテリーに連れられて、彼は「新しい名前」と「新しい環境」を与えられる。見知らぬ町へ向かう途中、ジャックは車の中から学生たちを見る。テリーは言う「君の知らない年頃の子供たちだよ」と。芝生の上で座ったり駆け回る学生たちを見ながら、ジャックは言う、「マクドナルドだ」と。

子供の頃、学校でいじめに遭う。そして母親の精神的な病。家にも学校にも居場所のない少年は、ある日「友人」と出会う。彼もまた孤独だった。孤独と孤独が出会い「親友」になる。悪いことの全部を、その友達から学ぶ。でかい鰻を殺した日、少年2人は少女を殺害する。その事件から、彼は「少年A」と呼ばれる。社会を震撼させた少年による少女殺害のニュース。

それから10年以上。少年は青年になり、「社会」に戻ってくる。

職にも就き、友人もできた。人助けもして新聞に載った。恋人もでき、彼女は「マイ・ヒーロー」なんてジャックに言う。すべて、初めての事。

酒、ドラッグが身近にあることを、この映画ではしっかりと描いている。ある日の仕事帰り、仲間とクラブに出かけ、酒を飲み、友人が何も言わずジャックに飲ませたドラッグE。彼は、ただ感情のままにひとり躍る。躍る彼の頭が振られ、足下がふらつき、だけども気持ちよさそうなあの状態。

今、ジャックとして「新たにスタートした」人生の【夢の中】。

次第にジャックは恋人に本当のことを告げたくなる。彼女なら分かってくれる。自分が少年の頃、人を殺し(おそらく幇助というニュアンスに近いが)、更正のため社会から隔離されていたこと。相棒だった友人は、施設内で誰かの手によって殺害され、自殺として処理された、、、事実。そんな過去の一切合切を捨て、新しいジャックとして活きる「今の自分」。でも本当の自分ではないこと。その繊細な、なんともリアルな演技が、アンドリュー・ガーフィールドは見事だった。

この映画を通して思うことは、「視点」と「視野」のバランスだ。目の前にいるジャックには、友達も恋人もできる「普通の青年」。保護管となったテリーの息子は家から出ず、職にも就かず、ダラダラしている。テリーの中で、少年Aの「今」の更正した姿と、自分の息子の「今」の比較的視点がある。息子であって欲しいと願うのは、更正したジャックなのではないか、、、と。

社会という広い視野に立ったとき、少年Aの釈放は、社会に放り出された不安要素でしかない。マスコミは彼の行方を追う。少年の頃の写真から、24歳になった彼の想像図を合成して掲載する。「追いかけてくる不特定多数の目」。それは、「誰」といった明確な人ではない。ただ社会全般の「なんとなく」といった曖昧で、雰囲気のような目。そんな「目」に、身近な人の「視点」はいとも簡単に流されてしまう。空気感とでもいうのか。一つのコミュニティで、いくら濃厚に築きあげても、マスコミが作り出す「無数の曖昧な目」には勝てない。

少年Aの過去は、ある日突然暴露される。職場からは出勤拒否を受け、間借りしていた部屋にはマスコミが駆けつけた。保護管テリーの息子による暴露。凶悪犯・少年Aを見つけ出した「社会」は、排除の方へと向かう。少年Aとは知らず、友情や愛情を築いた友人や恋人も、その「無数で曖昧な目」の中で揺れる。

ジャックは、高いタワーの上に立ち、この世から、【夢の中】から去ることを考える。ここにいてはいけない人間なのではないかと、「むき出しの社会」の中で、その目に見えない風の鋭さに涙する。

映画は、そこで突如終わる。その続きは、見る側にゆだねられ、エンドロールの間、様々なことを考えさせられる。

「少年A」と「ジャック」。この映画は彼自身の視点から描いているが、殺害された少女から見るとまた違って見えるだろう。が、確かに言えることは、マスコミが追う「彼の姿」は、どこか曖昧で、ちょっとした「好奇の」目に思えたりもする。

マクドナルドだと呟いた少年Aが、外の世界で様々なモノをジャックとして築きあげる。少年が放り出された社会。更正という「期間」は、犯罪を犯した少年に何を与えるのだろう。果たして、本当に社会の「目」の中で役に立つのだろうか。などなど、本当、いろいろ考えさせられる作品だ。



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BOY A
BOY A
2007年(イギリス)

監督:ジョン・クローリー
原作:ジョナサン・トリゲル
脚本:マーク・オロウ
出演:アンドリュー・ガーフィールド、ピーター・ミュラン、ケイティ・ライオンズ、ショーン・エヴァンスほか