冒頭、「告白」のシーン。女教師・森口悠子は、騒ぎのおさまらない教室で、自分のクラスの生徒に話し始める。
「命」。チョークが黒板にこすれて嫌な音がする。
大きく書かれた文字。
途中で退室する生徒がいる。いじめられっ子は、携帯電話で屋上に呼ばれ、それを拒否することもできないまま、「トイレに行く」といって教室を出る。そして、いじめられるのを承知で逃げられない「彼」。蹴られ、ボールをぶつけられ。
そんな「日常」が淡々と流れる中で、
森口もまた、淡々と「殺された娘」の犯人について、
非日常の告白を始めるのだ。
原作はデビュー作にして本屋大賞を獲得した大ベストセラー作品。往々にしてこれだけしっかりした原作があると、飛ばしすぎや、しつこ過ぎなどの「不満」があるのだが、この作品においては中島哲也監督のセンスが光っている。「嫌われ松子の一生」で見せた、あの何ともポップで、ベースがじめ〜っとしたリアル感。それをこれほどまでに「爽快」に描き出してくれると、【となり】で起こっている現実のようにも見えるのだ。
娘を殺した犯人は、このクラスにいる。
少年Aと少年B。牛乳に混ぜたHIV感染ウイルス。その「フィクション」が、まるで現実のように思わせるあたりに成功の証が見て取れる。
告白を終えた森口が、板書した「命」という文字を一気に、そして一瞬に消し去るシーン。これが最も印象深かった。消された命の文字が、うっすら残っており、「消えきっていない」というイメージとともに、この映画は「始まる」のだ。
原作を読んで面白かったという感想を持って、その後に映画化を知って、それから映画をみたという私自身、この映画は面白かった。それは、小説の中で「想像」していたシーンのどれもが、心地良いほどに裏切られ、まったく違った「映像」を見せてくれたからだ。最もだったのは「ウェルテル」という空気の読めない若い男性教諭。このキャスティングには、映画を見る前は疑問だらけだったが、実際に見るとはまっていたようにも思える。
さて、映画の話。
うっすら残った板書の「命」。ここから始まる少年Aと少年B、彼らを取り巻くクラスメイトと、少年Aとの関係を深める女子生徒。
少年Aはこの「犯罪」をしかける中心人物。そんな彼の「狂気」の根本は「マザコン」にあるというシンプルさ故、余計に現実感が増す。リンクしようがないような「2人」を結び合わせ、凶行にはしり、結果、自己崩壊する少年B。そんな「息子」を見守る母親役の木村佳乃は圧巻の演技だった。
HIVという見えないウイルスが、風聞によって「変な」力を持ち、それを中心に周りがさ〜っと引いていくイメージ。確証など何もないのに避けてしまう「世の中」。一つの教室を「世界」とするなら、そんな世の中ははっきりと示されている。「告白」を続けていく登場人物たち。女教師の告白から連鎖する「告白」とつながる人間関係。飽きさせないスムーズなストーリー展開。変調をみせる「少年B」の告白シーン。どれもが、なんというか中島作品だった。控えめなのに主張する。本当に素晴らしい。
内容について、ここに記すつもりは毛頭ないが、この作品、一言でいえば
「どっかーん」と「パチン」の違い、だと言えるかも知れない。
大事なものが壊れるときの音。
少年は、母親を失い、振り返って欲しくて「なにかどでかいこと」をしようとする。そしたら母親は振り返ってくれるかもしれないと。母親が家をでた時、彼に聞こえた「パチン」という壊れる音。
そんな少年の、身勝手な凶行の被害者になった女教師。少年法で守られ、「大人の目」で許されたかのように生きている少年にむける復讐。娘を殺され、失った。女教師が大事なものを失った音は「どっかーん」だった。ラストシーンで少年が犯した過ち。携帯電話越しに淡々と話し、最後の最後の一言。どっかーん。
そこに「大小」の違いは無いのかも知れないが、見ている側が受けるイメージは、その違いに近いようにも思えた。
衝撃のラスト。そんな謳い文句がぴったりくる作品だが、中島哲也監督曰く、森口悠子役は松たか子しかいなかった。そう、松たか子が見せる、この「淡々」した告白が、この映画のすべて、と言ってもいいかもしれない。
どっかーん、の一言も含めて。
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告白
2010年(日本)
監督:中島哲也
原作:湊かなえ
出演:松たか子、木村佳乃、岡田将生ほか